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2025.12.15

『トスカ』見どころをご紹介します

コラム

石川 了(ジャーナリスト/音楽・映画・ミュージカルナビゲーター)

プッチーニのオペラ『トスカ』というと思い出すのが、佐々木倫子の漫画『動物のお医者さん』のエピソードだ。公演中にトスカがスカルピアを刺殺する場面でナイフが用意されておらず、トスカはスカルピアを絞め殺して(!?)その場を凌ぐ。トスカが塔の上から飛び降りると、エキストラで参加した主人公たち演じる銃殺隊も、トスカに続いて次々と飛び降りていく。今でもそのシーンが目に浮かび、思わず笑ってしまう。
実際、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で、20世紀を代表するソプラノ歌手のモンセラート・カバリエ演じるトスカが飛び降りたら、安全のためのトランポリンの反発力で、彼女の跳んでいる姿がふたたび現れたとか。このラストシーンでは怪我をする人もいて(その理由で代役が演じた公演を観たことがある)、トスカ役の歌手も命懸けだ。
もちろん『トスカ』はこのような笑える内容ではない。たしかに「歌に生き、恋に生き」「妙なる調和」「星は光りぬ」などポピュラーなアリアが満載で、全編を彩るオーケストラもドラマティックだ。しかし、その甘美な音楽のなかで繰り広げられるのは、嫉妬や罠、拷問、殺人、強姦未遂、処刑、自殺といった陰惨な世界である。

 

1900年ローマのコスタンツィ劇場で初演されたオペラ『トスカ』は、1887年パリ初演のヴィクトリアン・サルドゥの戯曲『ラ・トスカ』に基づく。ここからは原作の戯曲を参考に、オペラがより楽しめる情報を紹介しよう。
物語の舞台は、1800年6月17日から18日にかけてのローマ。ナポレオン率いるフランス軍がイタリア北部でオーストリア軍に勝利した「マレンゴの戦い」の日である。当時のイタリアはまだ統一されておらず、ローマはナポレオン体制のローマ共和国崩壊直後、教皇国家のナポリ王国による統治下にあった。
捨て子のトスカはヴェローナの修道院で育ち、音楽の才能を活かしてスター歌手に成長する。一方、カヴァラドッシはローマの名門貴族の出身で、フランス革命のパリで育った自由主義者。教皇国家からすると危険分子だ。
ローマ共和国執政官のアンジェロッティは以前、昔の遊び相手との情事を暴露し、人前で侮辱された彼女は復讐に燃えていた。その彼女がナポリ王国の支配的な立場となり、王国がローマを奪還すると、アンジェロッティは反逆罪で投獄される。その理由は政治的要因だけではなかったのだ。
ナポリからローマに着任した警視総監スカルピアは、裸一貫で成り上がった労働者階級出身の役人だ。彼は、ナポリ王女とアンジェロッティの昔の情事の相手という二人の女性権力者からアンジェロッティの脱獄を厳しく叱責され、自身の立場が脅かされている。彼を捕えなければ命も危ない。
オペラでは、このあたりの事情をカット。アンジェロッティの比重は軽くなり、スカルピアを徹底的な悪役に変更。カヴァラドッシとアンジェロッティの死刑とトスカの肉体を得るためには手段を問わない冷酷なサディストとなった。現在、戯曲はほとんど上演されないが、プッチーニのオペラが今も高い人気を誇っているのは、台本作家ルイージ・イッリカ&ジュゼッペ・ジャコーザの脚色の力もあるのだろう。

 

戯曲の初演でトスカを演じたのは、伝説の名女優サラ・ベルナール。三島由紀夫翻訳台本による文学座公演(1963年)では、杉村春子がトスカを務めた。オペラでは、マリア・カラスがもはや伝説。やはりトスカは名女優が演じるものなのだ。
現代におけるオペラ名女優といえば、ロシア生まれ(現在はオーストリア国籍)のソプラノ、アンナ・ネトレプコが挙げられるだろう。RBO新シーズン開幕を飾る『トスカ』では、オペラ監督オリバー・ミアーズの新演出と44歳のチェコ生まれのヤクブ・フルシャ音楽監督就任後の初めての指揮という話題だけでなく、彼女の6年ぶりのRBO復帰も事件となった。ロシアとウクライナの紛争で彼女の態度が批判され、今回のキャスティングには抗議デモも起きたが、結果的に蓋を開けてみると、英国の観客と批評家たちは彼女のパフォーマンスに熱狂したのだった。

 

『トスカ』の音楽はなぜスカルピアのモチーフで始まり、カヴァラドッシの「星は光りぬ」の旋律で終わるのか。トスカはなぜ最期に愛するカヴァラドッシの名前ではなく「スカルピアよ、神の御前で」と叫んだのか。いろいろ問いを立ててみると、このオペラにはまだまだ謎がありそうだ。『トスカ』の魅力は尽きない。