家田 淳(演出家・洗足学園音楽大学准教授)
求め合い傷つけ合う男と女の物語を、アイグル・アクメトチナが魅せる!
昨年のロイヤル・オペラ・ハウス・シネマ「セビリアの理髪師」で主役ロジーナを歌って魅了したアイグル・アクメトチナが、ついにカルメンで登場する。
アクメトチナ(実際の発音は「アクメチナ」に近い)は、カルメン役でまさにオペラ界を席巻中の新生スター。去年から今年にかけては、メトの新制作「カルメン」に出演したほか、ベルリン・ドイツ・オペラ、バイエルン州立歌劇場に登場、今後もグラインドボーン音楽祭、アレーナ・ディ・ヴェローナ他で同役を歌う予定で、世界の主要歌劇場・音楽祭で次世代のカルメン旋風が吹いている。
現在若干28歳のアクメトチナは、ロシア・バシコルトスタン共和国の小さな村の出身で、幼い頃から歌が得意。「歌手のアイグル」と呼ばれて育ち、ポップス歌手を夢見る少女だった。オペラに目覚めたのは14歳の頃だったが、田舎町の暮らしゆえ、実際に歌手になれるとは思っていなかったという。転機は19歳の時。師匠の強い勧めで出場したロシアの国際コンクールで、ロイヤル・オペラ・ハウス(以下ROH)の養成所ジェットパーカー・ヤングアーティスツ・プログラムの所長に見出され、同プログラムのオーディションを受けて見事入所を果たしたのだ。
ROHのヤングアーティスツ・プログラムはオペラ界最高峰の養成機関で、世界中から毎年数千人の応募がある中、入所できるのは歌手5名、指揮者、ピアニスト、演出家各1名のみ。2年間のプログラムで、演技、各国言語などのコーチングを受けながら、本舞台に小さい役で出演できる。筆者は「歌手の演技訓練法」を学ぶための研修先にこの機関を選び、2014年に半年間、非正規メンバーとして各種クラスに参加したが、オペラに関わるあらゆる側面を実践的に学べる非常に充実したプログラムだった。
メンバーはある程度プロとしての経験がある20代後半から30代前半のアーティストが中心で、アクメトチナの20歳での入所は異例中の異例。そしてプログラム在籍2年目、ROH本舞台の「カルメン」に主役のカバーとして参加していたところ、本役の歌手が降板し、いきなり主役デビューを果たして話題をさらったのである。たった21歳でカルメンを歌うのは、ROHの長い歴史における最年少記録だった。
さて、アクメトチナはどんな歌手か? まず、聴く者を体ごと包み込み、圧倒的な快感を与える声。天性のチャーミングなオーラ。加えて、技術と直感を組み合わせた、リアルで繊細な演技力がある。ROHのプログラムで学んだだけあり、彼女は持ち前のカリスマだけで押し切ることはしない。同じ役を何度歌っても演技がありきたりにならないよう、稽古場では演出家とやりとりを深め、役の心理をつかみ、プロダクションごとに新たなカルメン像を造形すると語っている。その上で、天性の勘で本番に臨む。「カルメン役に限っては、事前に計算ができない。もちろん演出の決まり事は守るが、その日、その瞬間に自分がどうなるかは、やってみるまでわからない。舞台に立ったらカルメンとして生きる」。これは理想的なオペラ歌手のあり方ではないだろうか。毎回がスリリングな舞台になること、間違いなしである。
インタビューで垣間見える彼女の人柄は、気さくで謙虚。芸術を通じて社会をより良い場所にし、将来的には若手アーティストをサポートする財団を設立する夢も語っている。来年はカルメン以外の様々な役にも挑戦するとのこと。そんなアクメトチナが今後どんな風に羽ばたいていくのか、目が離せない。
最後に、演出について少し。「カルメン」は時代設定を変えても違和感の少ない作品で、近年は現代に設定を移して観客に親近感を持たせつつ社会の闇を描き出す演出が多い。メトのプロダクション(こちらもホセはベチャワだった)はアメリカの軍需工場に舞台を置き、暴力と搾取にさらされる女性たちに焦点を当てたが、今回のダミアーノ・ミキエレットの演出は現代でももう少し抽象的な設定にすることで、この物語の普遍性が際立つようになっている。1970年代、南スペインの荒涼とした「どこか」。舞台上は殺伐とした屋外の空間と、幕によって警察の詰所になったりナイトクラブになったりする小さな小屋。盆を効果的に使ってこのシンプルなセットにさまざまな角度を与えつつも、空気感は閉鎖的。重く暑苦しい気候の中、文化も娯楽もない土地に閉じ込められた軍人たちと女たちは、必然的にお互いを求め合い、牙を剥いて傷つけ合う。1幕で弱い者いじめをする子どもの集団は、大人社会の縮図のよう。また、「ホセの母親」を黙役として登場させ、ホセの深層心理に潜む暗い影を暗示させているのも興味深い。この設定の中でアクメトチナとベチャワがどのような新しい表情を見せるか、ぜひご覧いただきたい。