森菜穂美(舞踊評論家)
クラシック・バレエの中でも、最も人気の高い作品が『白鳥の湖』である。チャイコフスキーの壮麗でドラマティックな旋律、一糸乱れぬ白鳥たちの群舞、そして白鳥オデットと黒鳥オディールを一人のバレリーナが演じ分ける趣向により、クラシック・バレエの代名詞となり、日本でも最も多く上演されているバレエ作品である。
2018年5月に英国ロイヤル・バレエは、弱冠31歳のリアム・スカーレット振付による新しい『白鳥の湖』を初演した。スカーレットはロイヤル・バレエのダンサーだった24歳の時に振り付けた『アスフォデルの花畑』が英国批評家協会賞に輝いて天才の出現と大きな話題を呼んだ。2016年には初の全幕作品『フランケンシュタイン』がシネマでも上映された。切り裂きジャックの物語をバレエ化した『スイート・ヴァイオレット』、『ヘンゼルとグレーテル』、『フランケンシュタイン』、そして1940年代のマンハッタンを舞台にした『不安の時代』など、スカーレットの作品は現代性とダークな世界観が特徴的で、その傾向は『白鳥の湖』にも表れている。
マリウス・プティパの生誕100周年を記念し、これまで上演されていたアンソニー・ダウエル版に代わり、30年ぶりに新しい『白鳥の湖』が製作されることになった。飛ぶ鳥を落とす勢いの若き天才スカーレットに白羽の矢が当たり、『アスフォデルの花畑』『スイート・ヴァイオレット』そして『フランケンシュタイン』でもスカーレットとコラボレーションしたジョン・マクファーレンが美術を手掛けることになった。
スカーレットは、白鳥たちの群れが幻想的に舞う2幕は現在世界中で上演されている『白鳥の湖』のベースであるプティパ/イワーノフ版(1895年)に忠実な振付としたが、1幕、3幕、4幕には変更を加えた。悪魔ロットバルトは女王の側近に扮して玉座を狙い、パ・ド・トロワを踊るのはジークフリートの姉妹と、王子と特別な絆で結ばれている友人ベンノという設定が斬新だ。3幕のナポリの踊りのみ、ダウエル版にも採用されていたアシュトンの振付を引き継いだ。4幕は全くのオリジナルの振付で、”死“に魅せられ2021年に35歳で早世したスカーレットらしい荘厳な悲劇に仕上げた。辛口の英国の批評家たちにも絶賛されたこのプロダクションは、3度目のリバイバルを迎えても圧倒的な人気を誇り、発売されるや否や全公演のチケットが売り切れた。
2024年4月24日に収録された今回のシネマでは、ロイヤル・バレエの新時代トッププリンシパルの二人、ヤスミン・ナグディとマシュー・ボールが主演。昨シーズンの『眠れる森の美女』や、2019年の『ロミオとジュリエット』など、シネマでこの二人の主演が上演される機会も多く、至高のパートナーシップを築いてきたペアだ。共演を重ねてきた二人だけに、自然な演技とぴったりと息が合ったサポートが見事で、当代最高レベルのパフォーマンスで酔わせてくれる。
長い手脚による繊細でたおやかな表現、磨き抜かれ安定した高度な技巧にドラマティックさも備えた知性派ナグディは、凛と気高く悲劇的な白鳥の王女オデット、自信に満ちて魅惑的な黒鳥オディールという全く違った二つのキャラクターを好演。3幕クライマックスの32回転のグラン・フェッテは3回転も入れて強靭かつエレガントで音楽性にも優れた踊りで魅せる。腕の動きで呪われた運命を語るマイムの美しさも特筆ものだ。愁いを秘めた表情が絵になり、優雅な身のこなしと端正な容姿の英国貴公子ボールは、高い跳躍や高速回転など超絶技巧を披露して王子の情熱も見せる。最終幕での、愛し合いながらも結ばれない運命を嘆き慟哭するパ・ド・ドゥ(デュエット)の、二人の卓越した表現力を昇華させた痛切なドラマ性が胸を打ち、涙せずにはいられない。
怪僧ラスプーチンのような妖しげな女王の側近実は悪魔ロットバルトを怪演するのは、渋くセクシーな演技派トーマス・ホワイトヘッド。マシュー・ボール、そしてトーマス・ホワイトヘッドは、共にマシュー・ボーンの名作『白鳥の湖』で男性の白鳥であるザ・スワンを演じたという共通点がある。
ジークフリート王子の親友ベンノは、軽やかで高い跳躍と美しいプロポーションの韓国出身の注目若手ダンサー、ジョンヒョク・ジュンが演じている。前田紗江、桂千理が花嫁候補である王女たちを魅力的に演じるなど日本出身のダンサーたちも随所で活躍している。もちろん、白鳥たちの一糸乱れない美しさを保ちながら、フォーメーションを次々と変化させていくコール・ド・バレエ(群舞)は、大きな見どころだ。
幕間の解説映像では、リアム・スカーレット亡き後彼の作品の振付指導を行っている元プリンシパルのラウラ・モレ―ラや、主演のナグディ、ボールのインタビューとリハーサルシーンに加えて、白鳥のチュチュが熟達した職人たちの手で製作される過程のドキュメンタリーや、ジョン・マクファーレンによる舞台美術の解説と盛りだくさんの内容で、作品の理解を深めることができる。リハーサルでは、ロイヤル・バレエ専属ピアニストの川口春霞の姿も見られる。今回の新進気鋭の指揮者マーティン・ゲオルギエフによるチャイコフスキーの不朽のメロディについての解説も興味深い。
ジョン・マクファーレンによる黒とゴールドを多用し、重厚にして絢爛たる舞台美術もこの版の大きな魅力である。宮廷の中庭で展開される王子の誕生日祝いのパーティには村人はおらず、洗練された貴族社会であることが強調されている。荘重な大階段、黄金に輝く壁や玉座が象徴的な3幕の舞踏会の華麗な舞台美術には思わず息を呑む。古典作品を現代的にアップデートし、英国バレエ伝統の演劇性を強調した演出のこの『白鳥の湖』は、あまたある『白鳥の湖』のなかでも傑作の誉れ高く、世界最高のバレエ団である英国ロイヤル・バレエが総力を結集しているスカーレット版を、現地ロンドンに行かなくても観られる臨場感あふれる映画館の大画面で、ぜひ満喫してほしい。