石川了(音楽・舞踊ナビゲーター)
大ヒット映画「プリティ・ウーマン」と「椿姫」
もう30年以上も前になるが、世界的に大ヒットした『プリティ・ウーマン』という映画を覚えているだろうか。リチャード・ギア扮する敏腕実業家のエドが、LA出張中に、ジュリア・ロバーツ扮する高級娼婦ヴィヴィアンと一緒に過ごすうちにお互いに惹かれ合い、境遇の差を越えて結ばれるというロマンティック・コメディだ。
映画の中で、エドがヴィヴィアンと一緒に盛装してオペラを観に行く、その演目が『椿姫』である。第1幕冒頭の華やかなパーティーの音楽から、ヴィオレッタのアリア「花から花へ」、第2幕の別離の絶唱「私を愛してアルフレード、私があなたを愛するくらい」、そして終幕のヴィオレッタの死へと続く。ヴィオレッタとヴィヴィアン、2人の高級娼婦の心情を重ね合わせるようなジュリア・ロバーツの表情が、とても印象的であった。
エドがバラの花束を持ってヴィヴィアンを迎えに行くラストでは、前述の第2幕の別離の絶唱がドラマティックに奏でられる。ハッピーエンドになぜ別離の音楽が? まあそれはご愛嬌として、筆者にとって『プリティ・ウーマン』は、宣伝文句だった現代版『マイ・フェア・レディ』というより、ヴィオレッタが幸福をつかんだ現代版『椿姫』という感覚の方が近い映画であった。
ロンドンの観客が熱狂し、新たな伝説が生まれた「椿姫」!
“プリティ”つながりでいえば、英国ロイヤル・オペラハウス シネシーズン2021-22『椿姫』でヒロインのヴィオレッタを演じるのが、1985年南アフリカ生まれのソプラノ、プリティ・イェンデだ。
筆者は以前クラシック音楽専門チャンネル「クラシカ・ジャパン」で、若手アーティストを紹介する「明日のスターたち」というシリーズを編成したのだが、2012年収録の同番組で、彼女がベッリーニの歌劇『清教徒』の狂乱の場を圧倒的な声で歌っていたのを思い出す。あれから10年、30代半ばのイェンデは、ヴィオレッタを歌うのに欠かせないコロラトゥーラ(コロコロ転がすように歌う軽めの声)と強くドラマティックな声の両方を兼ね備えたソプラノに変貌した。この映像で、その成長ぶりを実感できるのが嬉しい。
英国ロイヤル・オペラハウス(ROH)公演は、国際色ゆたかなアーティストたちの饗宴も楽しさのひとつ。アルフレードを歌うスティーブン・コステロは、1981年生まれのアメリカ人テノール。海外ドラマ『ベター・コール・サウル』『ブレイキング・バッド』や映画『Mr.ノーバディ』の主演俳優ボブ・オデンカークに少し似ているところも、ドラマ好きには注目してほしいポイントだ。アルフレードの父親ジェルモン役は、当初予定のディミトリ・プラタニアスが病気のため降板し、今や50代のベテランとなったブルガリア人バリトン、ウラディーミル・ストヤノフが代役で出演した。
指揮は、本公演でROHデビューを果たした気鋭のイタリア人指揮者ジャコモ・サグリパンティ。日本デビューとなった2020年2月の東京二期会『椿姫』公演も記憶に新しい。この『椿姫』では、マエストロ独特のテンポ感が見どころで、歌とオーケストラの多少のズレも何のその、ライブならではの緊張感と音楽の推進力が、映画館で観るオペラの面白さを倍増させている。なお、第3幕が始まる前に挿入されるイェンデとサグリパンティのピアノ稽古は必見!お見逃しなく。
プリティ・イェンデの「椿姫」に全員号泣必至!
1994年12月初演のリチャード・エア演出が、30年近く経った今なお上演されていること自体、このプロダクションのロンドンでの根強い人気を物語っていると言えよう。サー・ゲオルグ・ショルティが指揮し、ルーマニア人ソプラノのアンジェラ・ゲオルギューが一夜でスター誕生となった初演の模様は、テレビやDVDで観たことのある方も多いだろう。
筆者は、2008年1月に現地ロンドンで、エア演出の『椿姫』を観劇した。キャストは、当時人気絶頂のアンナ・ネトレプコとディミトリ・ホロストフスキー、人気が出始めたばかりのヨナス・カウフマン、指揮はマウリツィオ・ベニーニという布陣だった。初日の公演チケットを、当日の早朝に並んでゲット。筆者も家族も、そして周りに座っていた朝一緒に並んだオヤジたちも全員号泣した、あの興奮は忘れられない。
身を堕としたヒロインが真実の愛に目覚め、一時の幸福を味わうが、恋人の父親に仲を引き裂かれ、最後に孤独に死んでいく。再演の度に歌手が変わっても、一人の女性の命が燃え尽きようとする一瞬の輝きに、誰もが胸が熱くなるストーリーとヴェルディの音楽。『椿姫』は、『プリティ・ウーマン』のヴィヴィアンのようなオペラを観たことがない人でも、必ず泣けるオペラなのだ。
映画館の中では、泣いたって大丈夫。ただし、必ずハンカチは持っていくように。