石川了(クラシック音楽専門TVチャンネル「クラシカ・ジャパン」編成)
<なぜ、どうしようもない男(ゲルマン)に惚れてしまうのか?>
【賭博の必勝法】
チャイコフスキーが亡くなる3年前の1890年に発表した『スペードの女王』。チャイコフスキーのオペラといえば、作曲家30代後半の『エフゲニー・オネーギン』(1879年初演)の方が有名かもしれませんが、ちょうど50歳の時のこの作品も、近年ではザルツブルク音楽祭などさまざまな歌劇場や音楽祭で取り上げられる人気作です。
この映像は、ノルウェーの鬼才ステファン・ヘアハイムが演出し、2016年にマリス・ヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団で初演された、オランダ国立歌劇場と英国ロイヤル・オペラハウスの共同プロダクション。ロンドン公演の指揮は、もちろん英国ロイヤル・オペラが誇る音楽監督アントニオ・パッパーノです。
原作は、1834年に発表されたロシアの国民的作家アレクサンドル・プーシキンの中編小説。
貧しいゲルマンは純情な乙女リーザの恋心を利用し、彼女の後見人で「スペードの女王」と呼ばれた老伯爵夫人から賭博に必勝する秘訣を聞き出そうとしますが、誤って殺してしまいます。その後、伯爵夫人が夢枕に立ち、カードの秘密「3、7、エース」をゲルマンに教えると、彼はリーザを捨て、賭博場に向かいます。ゲルマンは「3、7」と賭けて勝ち続けますが、最後の勝負でエースに賭けたはずの手には、なぜかスペードの女王が…。
プーシキンはこの作品で、人間のエゴや野心、当時の新たな資本主義社会を、幻想とリアリズムで描き、後のゴーリキーやドストエフスキーに大きな影響を与えました。
オペラは、エレツキー公爵というリーザの婚約者を創造し、エレツキー公爵はリーザを愛し、彼女はゲルマンを愛するという三角関係を新たに設定。原作ではリーザは別の男性と結婚しますが、オペラでは彼女はゲルマンの本性を知って絶望し自殺します。作曲家の弟モデストによるオペラ台本は、原作の持つ社会性を重視するのではなく、ヒロインのリーザに、より多くのドラマ性を持たせたと言ってもよいでしょう。
【チャイコフスキーの絶頂期】
オペラ『スペードの女王』は、何といってもチャイコフスキー絶頂期の美しくダイナミックな音楽が見どころ。この作品の前後にはバレエの傑作『眠れる森の美女』と『くるみ割り人形』が作曲され、バレエ・ファンにはそれらの面影も見えてくるのではないでしょうか。メランコリックで、時にホラーの要素も醸し出し、18世紀の音楽様式も登場するなど、『スペードの女王』はチャイコフスキーの壮大な実験の場であったと言えるかもしれません。
パッパーノは、切れ味鋭い怒涛のカンタービレで、この陰惨な物語を力強く牽引。オペラの悲劇性と怪奇性を高める、その音楽作りは圧倒的です。幕間の彼のピアノ付き音楽解説では、パッパーノのカンタービレがなぜこんなに素晴らしいのかをご理解いただけると思いますので、絶対にお見逃しなく。
【同性愛に苦しんだチャイコフスキー】
この映像では、チャイコフスキー本人も登場し、一人の歌手がエレツキー公爵とチャイコフスキーの二役を演じます。2016年のオランダ公演同様、ロシアのバリトン歌手ウラディーミル・ストヤノフが、チャイコフスキーの風貌そのままにエレツキー公爵を演じ、冒頭からラストまで出ずっぱりの大熱演。このオペラの一番美しいエレツキー公爵のアリア「私は貴女を愛しています」も必見です。
チャイコフスキーが同性愛者であったことは広く知られていますが、このオペラを作曲しているとき、彼はゲルマン役のテノール歌手に夢中でした。この演出では、その同性愛に苦しみながら『スペードの女王』を作曲するチャイコフスキーの姿が、本来の物語と同時並行で描かれているのもポイント。ステージに置かれた鳥籠のオルゴールからは『魔笛』が流れ、チャイコフスキーのモーツァルトへの敬愛ぶりも暗示。ヘアハイムによる、こだわりのチャイコフスキー像にも注目してみてください。
なぜリーザは、お金も立場もあって人間的にも素晴らしいエレツキー伯爵ではなく、どうしようもないゲルマンに惚れてしまうのか。破滅と知りながら惹かれてしまう人間の性は、どの時代も変わることなく存在するのだなあと、この作品を観て思ってしまいます。
まさにオペラには人生が詰まっている。だからこそ、人はオペラにハマるのかもしれませんね。