田里光平(NBS/公益財団法人日本舞台芸術振興会)
※英国ロイヤル・オペラの日本公演を主催
日本人にとって特別なオペラ『蝶々夫人』
『蝶々夫人』は日本人にとって特別なオペラだ。現在世界の歌劇場で恒常的に上演されているオペラの作品数は60~70と言われているが、その中で唯一、日本を舞台にした作品であり、日本文化がどのように舞台で表現されるか、その演出に向けられる日本人の目は厳しい。そして、今なお日本各地に残る米軍基地のことを考えると、このオペラが現代まで続いている物語であることに想いを馳せずにはいられない。
残念なことに海外の歌劇場では日本文化への理解を欠いた演出も多く、それゆえにメジャーな作品でありながら、国内の団体以外で本作を観る機会は皆無という状況だった。そんな日本の状況に変化をもたらしたのが今回の英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズンによる『蝶々夫人』の上映ではないだろうか。プッチーニの生み出した甘美で流麗な旋律は背筋が震えるほど美しく、一流の歌劇場、アーティストによる上演は、音楽の洪水にひたる喜びを体感させてくれる。
そして美しい音楽とともに、今回のモッシュ・ライザー、パトリス・コーリエの演出による舞台は、私たち日本人の観客に“安心”を与えてくれる舞台である。英国ロイヤル・オペラでは今回の再演に際し、日本人スタッフを投入。日本人からみても違和感のない舞台になるようにアップデートを重ねてきた。
歴史的背景が確立されているオペラを演出するのは非常に難しい。時代考証を綿密にすると、時として古臭い印象を与えてしまうこともある。さらにSNSが普及し、早いテンポや展開になれた現代人の感覚にも耐えうるものにしなければ観客の支持を得ることは難しくなってくる。
今回の上演では単純に明治時代を再現するのではなく、伝統的でありながらどこか現代性を感じさせる要素が随所に織り込まれている。蝶々さんのまとう婚礼の白無垢も、スズキの質素な着物も、いわゆる“着物”とは少し違うデザインで、素材も異なっている。装置や照明とあわせて考え抜かれた衣裳の色使いも美しい。障子にみたてた白い背景幕を簾のように上下させることでテンポよく場面を変えつつ、違和感なく場面が日本であることを表現する。少しの工夫で観客に与える印象を変えられることを示した好例といえるだろう。
最高の歌手による、誇り高く美しい蝶々さん
プッチーニのオペラは歌手にとっては過酷な作品ばかりだ。中でも蝶々さんは“ソプラノ殺し”と言われることもある難役で、15歳の可憐な少女という設定のために柔らかで繊細な音色が求められる役柄。大編成のオーケストラを突き抜ける声で、かつ繊細な表現をすることは非常に難しい。しかも全編をとおしてほぼ出ずっぱりで歌わねばならず、体力的にも負荷の大きな役である。
そんな難しいプッチーニのオペラを得意とし、今回の上映において音楽的成功を牽引しているのがアスミク・グリゴリアン。ザルツブルク音楽祭の『サロメ』の成功で一躍世界の檜舞台に躍り出たこの若き歌手は、他の歌手にはない圧倒的な存在感と個性を放つ。一度彼女の舞台に接したならば、その舞台は観客にとって長く記憶に残るものとなるだろう。
グリゴリアンは「プッチーニは感情を音楽で表現する名人」と語る。持ち前の強靱かつしなやかな声は役柄によって様々な色彩を帯び、彼女が演じるとオペラのヒロインが血のかよった人物となり、舞台がより生き生きと輝く。声だけでも主人公の心情を観客に伝えきる力をもち、さらに高い演技力まで兼ね備えている稀有な歌手である。
そして「音楽を通して私自身の物語を表現している」と、常に独自の解釈を探求するディーヴァは受け身のヒロインにはとどまらない。彼女の演じる蝶々さんは自らの強い意志を感じさせる。特に2幕の終盤から3幕の幕開きにかけ、一人舞台に正座し、じっと宙をみつめるグリゴリアンの姿は、歌わずして蝶々さんの孤独とかすかな希望、さらには武家の娘であるという誇りを感じさせ、終幕の自死を予感させる。まさに本公演の白眉といえる場面である。なお、そんなグリゴリアンのチャーミングな素顔が見られるのはシネマならではの嬉しさ。リハーサルでドラゴンボールのTシャツを着ている姿には思わず笑顔がこぼれる。
こうして言葉を尽くしてみたところで、『蝶々夫人』というオペラやアスミク・グリゴリアンという歌手の魅力を十分に伝えることはできない。オペラはやはり劇場で体験する芸術であり、生の演奏や歌声に触れないとその真の魅力は伝わらない。まだオペラに触れたことがない方はまずはシネマから、そして生の舞台へと少しずつその世界を広げていただければ、きっと新たな喜びを感じてもらえるのではないだろうか。総合芸術と言われるオペラには数百年にわたって受け継がれてきた豊かな土壌が備わっているのだから。