2024.04.02

バレエ『マノン』見どころをご紹介します。

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森菜穂美(舞踊評論家)

濃厚なドラマティック・バレエの沼に溺れてみたい―愛と官能の最高傑作、ロイヤル・バレエの『マノン』

ケネス・マクミラン振付の『マノン』は、『ロミオとジュリエット』『うたかたの恋―マイヤリング』と並び、マクミランの代表作と呼ばれるドラマティック・バレエの最高傑作だ。今年で初演から50周年を迎える。ロイヤル・バレエの歴史の中でも、初演のアントワネット・シブリ―、アンソニー・ダウエル、そしてシルヴィ・ギエム、本シネマシーズンで司会を務めるダーシー・バッセルなど、スターによる数々の名演が行われてきた。

18世紀のパリの裏社交界が舞台。華やかさの裏で絶対的な貧困がはびこる世界で、魔性の美少女マノンは贅沢な生活を選ぶのか、貧しくてもデ・グリューとの愛に生きるのか。愛の本質を問い続け、人間心理の深層に迫った色褪せない名作である。ガラ公演では、恋の高揚感に酔うロマンティックな『寝室のパ・ド・ドゥ』や、ルイジアナの沼地での死を前にした極限の愛を見せる壮絶な『沼地のパ・ド・ドゥ』が頻繁に踊られるなど、一度観たら忘れられない名場面の多い作品だ。ロイヤル・バレエを始め、パリ・オペラ座バレエ、アメリカン・バレエ・シアター、オーストラリア・バレエ、ヒューストン・バレエ、そして新国立劇場バレエ団など世界中のバレエ団で上演され、踊り継がれてきた。

原作はアベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』で、オペラ化も、映画化もされている(アンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督による1949 年の映画化『情婦マノン』、そしてカトリーヌ・ドヌーヴ主演の『恋のマノン』(1967)も映画ファンなら知っている人も多いだろう)。
  
1973年夏のロイヤル・バレエのシーズンの最終日の夜、ロイヤル・バレエのプリンシパル、アントワネット・シブレーは楽屋に一冊の本が置いてあることに気が付いた。本に添えられたケネス・マクミランからのメモには、「夏休みの課題読書です。74年の3月7日に必要になります」と書かれていた。

マクミランはプレヴォーの1731年の小説に基づき、自身のシナリオを作り上げた。マノンの気まぐれな態度の鍵は、貧困を恐れたことにあったと彼は受け止めた。兄レスコー同様、彼女は貧しさという屈辱を逃れるためには何でもしたのだ。何よりも彼女は贅沢な生活をするために金持ちの男に守ってもらう必要があった。18世紀のパリ社会は、モラル的にも金銭的にも移り気で、富と腐敗が、堕落と退廃と共に繁栄を誇った。このバレエの舞台は一見華やかに見えて、これらの対照性を明らかにしている。場面転換の後ろ側にはボロ布が吊るしてあり、性的なサービスを提供することによって得られた贅沢な服をまとった女性たちが誇らしげに歩くそばで、小銭を拾う浮浪児たちがいる。(ジャン・パリー「一つの古典の創造」より引用)この貧困がはびこる世界観は、現代の格差社会や貧困と地続きのものを感じさせる。

甘美でドラマティックな旋律が印象的な音楽については、マクミランは1974年のバレエ初演時、レイトン・ルーカスに編曲を依頼してオペラ版も手掛けたジュール・マスネの音楽を用いたが、オペラと同じ曲はあえて使用していない。現在のバージョンは2011年にマーティン・イエーツが、マスネの既成の曲を最初からまるでバレエ組曲として書かれたように再構成して完成させた。

本上映では、ロイヤル・バレエのトップスターたちの贅沢な共演と共に、舞台に立っている一人一人のアンサンブルが、18世紀のパリ、そしてニューオーリーンズに生きる人々の息吹を細やかな演技で伝えて、これぞ英国の本家ドラマティック・バレエという見ごたえのある舞台を堪能させてくれる。

今回マノンを演じるのは、世界的なスターバレリーナのナタリア・オシポワ。ボリショイ・バレエ時代から高い身体能力と技術で知られてきた、ロイヤル・バレエに移籍後には演技力を磨き、強靭な肉体をすみずみまで使って物語を語る唯一無二の傑出した個性と表現力で、ロンドンでも熱狂的に支持されている。時には大胆に、時には繊細に、マノンという一筋縄ではない女性を舞台の上で説得力を持って生き、観客に強い衝撃を与える。流されるだけのヒロインではない、過酷な運命の中で生き抜こうとする強さを持つ新しいマノン像を目撃してほしい。

マノンを一途に愛するデ・グリュー役は、シネマの全幕作品では初主演のリース・クラーク。2022年にプリンシパルに昇進したばかりで、ロイヤル・バレエ一の長身、映画スターのような麗しい容姿の持ち主であり、バレエ団の次世代を担い国際的なスターダンサーへと羽ばたこうとしている。本作では空中に投げられて二回転をしたマノンを地面すれすれでキャッチする、オフバランスなど危険ぎりぎりの難しいサポートが頻出するが、魔法のような彼のサポートには驚かされるはずだ。本作で重要なパ・ド・ドゥの素晴らしさと、息の合った演技は、観る者を深い感動に引きずり込むことだろう。オシポワとは、昨年夏のロイヤル・バレエ来日公演『ロミオとジュリエット』でも共演しており、初共演以来5年間にわたって見事なパートナーシップを築いている。

マノンの兄レスコーには、今年3月に惜しまれながら引退し、ロイヤル・アカデミー・オブ・ダンス(RAD)の芸術監督に就任する、実力派プリンシパルのアレクサンダー・キャンベル。大胆な酔っ払いのソロなどで、踊りと演技が融合した名人芸を見せてくれる。またレスコーの愛人として、シネマシーズンの『ドン・キホーテ』での主演が記憶に新しいマヤラ・マグリが魅力を振りまき、ムッシュG.M.にはロイヤル・バレエきっての名役者ギャリー・エイヴィスが味わい深い演技を見せている。

マダムの館でのダンシング・ジェントルマンの踊りでは、アクリ瑠嘉を始め、カルヴィン・リチャードソン、ジョセフ・シセンズというプリンシパル有力候補の3人が華麗なステップを踏んでおり、次に誰が昇進するのかワクワクしながら観るのも本作の楽しみ方の一つだ。ベガ―チーフ(物乞いの頭)を演じる中尾太亮の鮮やかな跳躍や回転技、あでやかな高級娼婦を演じる崔由姫、前田紗江ら日本出身のダンサーたちの活躍も見逃せない。

今回のシネマシーズンでは、マノン役を始め、レスコーの愛人など数々の役を演じ、昨年日本で惜しまれながら引退して現在はマクミラン財団の芸術監修者となった名花ラウラ・モレ―ラが『マノン』の真髄について語り、そして主役を指導するシーンが見られる。また重厚にて絢爛な舞台美術を手掛けた、巨匠故ニコラス・ジョージアディスの姪エフゲニアが、本作の舞台美術や衣裳について語るトークも聞き逃せない。

演劇性に優れたバレエの世界最高峰、ロイヤル・バレエが本気を見せた最高傑作『マノン』、ぜひ大スクリーンで味わって、沼地にはまったまま帰れなくなるようなディープな舞台体験をしてみてほしい。

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