香原斗志(オペラ評論家)
オペラ《イル・トロヴァトーレ》が最高に魅力的な理由
勇猛果敢な、または、おどろおどろしいイメージがある《イル・トロヴァトーレ》には、そういう音楽もあるが、それ以上に、美しいメロディがあふれんばかりに詰めこまれている。耳に最高の幸福をもたらしてくれるオペラだと、アントニオ・パッパーノが指揮する演奏を聴いて、あらためて実感した。
描かれているのは、美しい物語でも幸福な物語でもない。それなのに、なぜこうもメロディが心に染み入るのだろうか。そして、物語に没入させられるのだろうか。
真摯な感情が美しいメロディとからみ合う
物語はじつに刺激的である。
伯爵に母親を火あぶりにされたロマの女のアズチェーナは、復讐のため、伯爵の2人の息子のうち1人をさらって火中に投げたつもりが、誤って自分の息子を――。結局、彼女は手もとに残った男児を育て、それが「トロヴァトーレ(吟遊詩人)」のマンリーコに成長して、宮廷の女官のレオノーラと愛しあっている。だが、ルーナ伯爵、すなわち先代伯爵のもう1人の息子も彼女に思いを寄せていて、マンリーコに激しく嫉妬している。伯爵はとうとうマンリーコを処刑するが、それは自分の弟だった――。
ドラマはこうして終始、スリリングに展開する。このストーリーを荒唐無稽だと後ろ向きに評するムキは昔からあるが、筆者はまったく同意しない。作曲したヴェルディが音楽をとおして、あらゆる場面に深いリアリティをあたえているからである。このため、すぐれた演奏が得られると、俄然、真実味が加わる。
たとえば第4幕。捕らえられたマンリーコへの思いを歌うレオノーラのソロは、メロディがすこぶる美しい。そこには彼女の心情の深さが反映されている。続く場面でレオノーラは、ルーナ伯爵にマンリーコの命乞いをし、代わりに自分のからだを捧げると伝えて毒をあおる。そのアップテンポの音楽に聴き入ってしまうのも、死を賭してでも恋人の命を守りたいレオノーラと、やっと思いを遂げられると信じるルーナ伯爵が、いだく感情はまったく異なってもそれぞれ真剣だからである。
第3幕、マンリーコがレオノーラへの愛を歌うアリアも、うっとりするほど美しくて真摯な思いを裏づけるし、そこにアズチェーナが捕らえられたという知らせが届いて歌う、アリアの勇壮な後半部には、母を救おうという強い決意が表されている。
また、第2幕でマンリーコに向かって、自分の子を火に放り込んでしまったと歌い、「では自分はだれの子なのか」と問われると、「私の子だよ」「大切に育ててきたじゃないか」と答えるアズチェーナ。育てたのは憎き伯爵の子だという思いと、育てながら宿った母親としての思いが複雑に入り組むさまが、音楽で見事に描かれる。
どの場面も真摯な感情が心揺さぶるメロディとからみ合い、美しさと力強さのなかで物語が真に迫る。聴く(見る)側は否応なくドラマのなかに引きずり込まれ、メロディに心を預けざるをえなくなる。
深い感情を注ぎ込む歌手たちと寓話的な演出がマッチ
ただし、いま記したことは、このROHの《イル・トロヴァトーレ》のような質が高い公演であれば、という条件がつく。むろん、作品自体に力があるが、そのポテンシャルを引き出せるかどうかは演奏、そして演出次第である。
パッパーノはこのオペラ全体を覆う夜の雰囲気をたくみに醸し出し、歌手の呼吸を測りながらたっぷり歌わせる。だが、歌手まかせではない。歌手の声を存分に引き出しつつ、ヴェルディが楽譜に記した発想記号にしたがい、声を細かくコントロールさせながら感情を豊かに表現させる。だから、心に染み入るメロディにも勇壮な音楽にも、登場人物の真摯な生きざまが感じられて聴く(見る)人の心を打つ。
マンリーコ役のリッカルド・マッシ(テノール)はスタイリッシュな声と歌唱で、高いドの音(ハイC)も輝かしい。ルーナ伯爵役のリュドヴィク・テジエ(バリトン)は格調高い響きで、たんなる悪役に堕さない。アズチェーナ役のジェイミー・バートン(メッゾ・ソプラノ)は湧き出る声に深い感情が宿る。
レオノーラ役は、体調不良で降板したマリーナ・レベカの代役、若いレイチェル・ウィリス=ソレンセン(ソプラノ)だが、技巧もふくめた歌唱水準の高さもさることながら、純粋で美しい心を表現できないとドラマを弛緩させてしまうこの役を、見事に歌った。フェルランドのロベルト・タリアヴィーニ(バス)も、品格ある声でドラマを引き締めた。
舞台は15世紀のスペイン。演出のアデル・トーマスはあえて時代設定をそのままにし、15世紀のヒエロニムス・ボスや16世紀のピーテル・ブリューゲルの絵画に描かれた、怪奇性に富んだシュールな世界を視覚的に表現した。舞台に寓話的なおもしろさが加わり、耳のほかに目も十分に楽しませてくれる。