<一味違った、大人も楽しめる芸術性の高い『くるみ割り人形』>
森菜穂美(舞踊評論家)
冬の風物詩として、最も愛されるバレエ作品である『くるみ割り人形』。E.T.Aホフマンの「くるみ割り人形とねずみの王様」をもとに1892年に誕生したこのバレエ作品は、チャイコフスキーの美しい旋律と幻想的な雪の場面や華麗で楽しい各国の踊り、クリスマスを舞台にした少女のファンタジックな冒険物語が人気を呼び、世界中で様々な振付作品が誕生してきました。その中でも、パリ・オペラ座バレエの『くるみ割り人形』は一味違って、大人が見ても楽しめる心理的な深みと高い芸術性、少しの怪奇性とエレガンスにあふれた魅力的な作品となっています。
『くるみ割り人形』は、主人公クララ(原作ではマリー)と金平糖の精を同じダンサーが踊る作品と、クララと金平糖の精を別のダンサーが踊る作品があります。初演では別々のダンサーが踊っており、英国ロイヤル・バレエで踊られているピーター・ライト版もそのパターンです。クララがそのまま金平糖の精の踊りを踊る版では、ダンサーの演じ分けが楽しめ、またクララの成長物語とする解釈もできます。パリ・オペラ座バレエのヌレエフ版の『くるみ割り人形』も、クララが金平糖の精のパ・ド・ドゥを踊っている作品です。
<クララの心理面に光を当てた、深みのある物語>
パリ・オペラ座バレエの『くるみ割り人形』は、パリ・オペラ座で芸術監督(1983-89 )を務めてバレエ団の黄金時代を築いたスーパースター、ルドルフ・ヌレエフによる振付作品。初演は1985年12月19日。パリ・オペラ座のために振り付けられた版は、他の『くるみ割り人形』のような子ども向けのおとぎ話ではなく、クララの心理面に光を当てた異色の作品となっています。E.T.Aホフマンの原作にある怪奇的な要素とファンタジックな面が融合し、初恋と冒険を通してクララが成長する姿も描かれています。初演では、ヌレエフ自身が魔術師ドロッセルマイヤーと王子を演じ、日本が誇るプリマ森下洋子がゲストとしてヌレエフと共演したことも話題となりました。
この作品の大きな特徴は、ドロッセルマイヤーと王子を同じダンサーが踊ること。主役は、初老の紳士と、光り輝く若々しい王子を演じ分けることになります。クララが優しく紳士的なドロッセルマイヤーに憧れ、その面影を王子の中に見出して愛するという物語になっていて、クララの心理面を掘り下げた作りとなっています。ドロッセルマイヤーがクララの夢の中で王子に変身し、またほかの1幕の登場人物たちも姿を変えて2幕に登場するなど、巧みにつながっている演出は映画的です。
ホフマンの心理ホラー的な要素が現れているのは、まず1幕のねずみたちが現れるシーン。ねずみたちを演じるのは「子ねずみ(petit rat)」と呼ばれるパリ・オペラ座学校の生徒たちで愛らしいのですが、集団でクララに襲い掛かる様子はホラー映画のようです。また2幕の冒頭では、クララの悪夢として巨大な頭部にコウモリの羽根を付けた不気味なクリーチャーたちが現れてクララを脅します。頭部を取ると中に入っているのはクララの家族でした。1幕の人形たちが踊る場面は、クララがコロンビーヌ役、弟のフリッツが兵隊役、ムーア人を姉のルイーザが踊り、2幕のスペインもルイーザとフリッツが踊るという仕掛けがあります。
<ヌレエフがロシアから受け継いだ、正統派クラシック・バレエの美しさ>
作品のハイライトである金平糖のグラン・パ・ド・ドゥはヌレエフ版らしい、細かい足技やリフトなど非常に精巧なテクニックをちりばめた作品となっています。金平糖の精のパ・ド・ドゥのチャイコフスキーによる音楽の中には、子どもが成長して行く中で失われていくもの、成長の痛みの切なさを感じさせる要素があり、強く胸を揺さぶられます。
大人も魅了する芸術性と深みがある作品ですが、『くるみ割り人形』ならではのお菓子の国での華麗なディヴェルティスマンは、高難度の技巧がちりばめられながらも誰が見ても楽しいものに仕上がっています。ロイヤル・バレエの『ロミオとジュリエット』『マノン』等の美術を手掛けたことで知られるニコラス・ジョージアディスがデザインした豪華で洗練された衣裳、きらびやかでダイナミックな群舞による雪の場面もあって見ごたえ十分です。
ヌレエフはワガノワ・バレエ・アカデミー在籍時に、キーロフ(現マリインスキー)劇場で踊られているワイノーネン版『くるみ割り人形』に子役として出演し、キーロフ・バレエに入団後も王子役を演じていたこともあり、基本的なところでヌレエフ版はこのロシア版の『くるみ割り人形』を継承しています。パリ・オペラ座バレエに振り付ける前にも、ロイヤル・バレエ、ミラノ・スカラ座バレエなど世界各地で『くるみ割り人形』を振り付けており、パリ・オペラ座版は彼の「くるみ」の集大成といっていいでしょう。
<トップエトワールのジルベール、新星ディオップをはじめ綺羅星のようなパリ・オペラ座のダンサーたちの豪華な競演>
クララ役を演じたドロテ・ジルベールは、パリ・オペラ座バレエを代表するエトワールで日本でも高い人気を誇ります。クリアで正確なテクニック、卓越した演技力で思春期の少女の不安定さから恋と冒険を通して成長して行く姿をナチュラルに演じています。『くるみ割り人形』は2007年に彼女がエトワールに任命された記念すべき作品で、しかもこの公演はストの真最中だったため、舞台装置、舞台照明なしで上演されたという異例の舞台でした。金平糖のソロでの優雅さと音楽性、美しい足捌きにもうっとりさせられます。ジルベールは2026/27 シーズン中に定年のためにオペラ座を去ることになるため、オペラ座で『くるみ割り人形』のクララを踊るのは最後という貴重な機会となります。
ドロッセルマイヤーと王子の二役を演じるのは、オペラ座最年少エトワールのギヨーム・ディオップ。パリ五輪の開会式で踊って注目され、長身で長くしなやかな美脚と高くふんわりとした跳躍、ファッション界からも注目される端正な容姿の貴公子です。その彼がミステリアスな老紳士ドロッセルマイヤーも演じるのは異例のこと。ディオップはジルベールの指名で今回この役を演じており、パートナーシップの素晴らしさも見ものです。
クララの姉ルイーザを、2025年11月の昇進試験でプルミエール・ダンスーズに昇進したばかりで注目を浴びている愛らしいビアンカ・スクダモア、弟フリッツも人気上昇中のアントワーヌ・キルシェ―ルが演じ、雪のソリストと妖艶なアラビアで、収録後にエトワールに昇進したロクサーヌ・ストヤノフが出演しているなど、今回も豪華キャストです。
パリ・オペラ座バレエのヌレエフ版『くるみ割り人形』は来日公演で上演されたことがなく、また映像パッケージとしても発売されていないため、そして完全な形での映画館上映も日本では初めてとなるため、今回のシネマ上映は見逃せない機会です。