視覚的にも聴覚的にもハイレベルな《蝶々夫人》の決定版 

香原斗志(オペラ評論家)

 

描かれているのが19世紀後半の日本だから、《蝶々夫人》が日本で親しまれているのは当然だが、世界的にみても日本での人気が特別に高いわけではない。蝶々さんという女性の悲劇は、観客を深い感動へと導き、涙を誘う普遍的な物語として、オペラが上演されるあらゆる国や地域で高い人気を誇っている。
蝶々さんはわずか15歳で、アメリカ人の海軍士官との「愛」を信じて「結婚」し、息子までもうけるが、相手のピンカートンはアメリカに帰国したまま。それでも周囲の忠告にも耳を傾けず、一途に「愛」を信じ、それが虚しかったと知るや、みずから命を絶つ。
作曲したプッチーニは、日本の旋律をあちこちに散りばめつつ、このヒロインの純真さにも、不安にも、自尊心にも、すべてに深く寄り添いながら、持てるかぎりの作曲技法を駆使して、この悲劇を深く美しく掘り下げた。

しかし、1904年2月のミラノ・スカラ座での初演は、「歴史的な」といっていいほどの失敗を喫した。もっとも、主な原因は反プッチーニ派の妨害だと考えられているが、むしろ失敗してよかったのかもしれない。プッチーニと楽譜出版のリコルディは、総譜を回収して公演をたった1日で中止し、プッチーニは次回の再起を期して改訂とカットを施した。
その結果、3カ月後にミラノの東方100キロ余りのブレーシャで、今度は熱狂的な成功を収め、その後、さらに改訂されていまに至る。私たちがいま、これほどまでに凝縮され、完成度が高い悲劇を味わえるのは、初演に失敗したおかげだともいえる。

 

洗練をきわめた舞台と音楽

これはパリのオペラ・バスティーユで2024年9月30日に上演された、エポックメーキングな舞台の映像である。なかでも特徴的なのが、アメリカの演出家ロバート・ウィルソンによる舞台だろう。静謐な空間で動きを極端なまでに抑え、シンボリックな所作を加えるウィルソンの演出に、《蝶々夫人》ほど親和性が高いオペラはないようだ。
元来、能のような静けさと様式美がみなぎるウィルソンの演出のもと、花柳寿々紫が振付を担当し、プッチーニの音楽と正しい日本につながる洗練された美しさが、高い次元でバランスされることになった。
《蝶々夫人》に描かれるのは、欧米人による一定の誤解にもとづく日本である。だから、舞台に「正しい日本」が描かれすぎても、セリフに描かれた「誤解された日本」との齟齬が生じて気になる。かといって、欧米流の誤解だらけの日本家屋や着物姿を見せられても、物語に集中できない。その点、日本美のエッセンスを含んだまま抽象化され、しかも洗練度が高いこの舞台は、「《蝶々夫人》の舞台はどうあるべきか」という問いに対する、ひとつの回答だと思う。

そして、プッチーニを得意とするイタリアの女性指揮者、スペランツァ・スカップッチが指揮する管弦楽が、蝶々さんの心情に寄り添いながら、繊細さと力強さのあいだを色彩豊かに行き交う。
このオペラは蝶々さんの心理を深く、かつ、わかりやすく描くために、「死の動機」「愛の動機」「短剣の動機」などの指示動機(ライトモチーフ)が散りばめられ、複雑にからまっている。スカップッチはそれらをていねいに浮上させながら、音を細部まで徹底して磨き上げ、舞台上の静謐な様式美と見事に調和させる。

 

傑出した歌手による内面的に深い歌唱

ここまで述べただけでも、名演であることは伝わったと思うが、この舞台でさらに傑出しているのが歌手である。
蝶々さん役のエレオノーラ・ブラットは、ピアニッシモからフォルティッシモまでのあいだで、音量も音の強さも自在に制御できるイタリアのソプラノだ。しかも、彼女が音をなめらかに紡ぐと、やわらかさと気品が自然に加わる。また、力強く歌ってもやわらかさが失われない。そういう声で、蝶々さんの純真さから誇り高い意志の強さ、そして不安や悲しみまで、動作の様式美と重なるように表面的な激しさは抑えながら、内なる感情として余すことなく描く。
ピンカートン役のステファン・ポップも、大きな体躯から発せられる豊かな声を制御して、微妙な歌を聴かせる。ピンカートンは蝶々さんを弄んだ軽薄な男であっても、第1幕の彼女との二重唱など、蝶々さんが信じるほどの「愛」を込められなければ、ドラマとして説得力がない。このルーマニアのテノールは、強く音圧がかかった声を、繊細なピアニッシモも交えて端正に美しく響かせる。一方、第2幕のアリアでは身勝手な絶望を内からみなぎらせる。

ほかにシャープレスのクリストファー・モルトマン(バリトン)も、スズキのオード・エクストレモ(メッゾ・ソプラノ)も好演。そして、すべての歌手が、この演出ならではの静けさと様式美を見事に活かす歌唱を披露している点は特筆される。スカップッチの力量もあってのことだろう。
プッチーニは外面的な感情表現を好まなかった。音楽の枠を決して壊さず、内側から感情が湧き上がることを求めた。そのことが視覚に対しても聴覚に対しても徹底した、《蝶々夫人》の決定版というべき舞台である。

この度予定しておりました「パリ・オペラ座 IN シネマ 2025 眠れる森の美女」延長上映につきまして、諸般の事情により8/31日までの上映となります。
楽しみにしてくださっていた皆さまには誠に申し訳ございません。
何卒ご了承の程どうぞ宜しくお願い致します。

 世界のスタンダードになりうる、すべてがハイレベルな《カルメン》 

香原斗志(オペラ評論家)

 

1875年3月3日にパリのオペラ・コミック座で初演された《カルメン》。作曲したビゼーは3カ月後の6月3日、帰らぬ人となってしまったが、それから150年にわたり世界中で大きな人気を維持している。
人気の理由の最たるものは、ヒロインのカルメンが体現する女性像だろう。彼女はまだ男尊女卑の気風が根強かった19世紀においても、ジェンダー平等が強調される今日においても、自由な女性の象徴である。いきなり有名な「ハバネラ」で「恋は野の鳥、だれも飼い慣らせない」と宣言し、強い自我をむき出しにする。そしてドン・ホセを誘惑し、その運命を大きく変えてしまう。

こういう女性は、男性上位の社会では女性にカタルシスをあたえ、男性の甘い破滅願望も叶えてくれた。それは、まだジェンダー平等の途上にある現代でも同じだろう。
そこにスペイン趣味が横溢するキャッチーで魅力的な音楽がまぶされる。旧来の価値観を代弁するミカエラなどは、フランス色の強い音楽で表現され、それとの対比で舞曲を中心にスペイン色が押し出される。いずれも耳に心地よいと同時に、カルメンの世界観を強烈に彩る。

 

音楽と演出のすぐれたバランス

前置きが長くなったが、オペラ《カルメン》の魅力が、これ以上ないほどに炸裂しているのが、2017年7月にパリのオペラ・バスティーユで上演され、圧倒的な評判を勝ちとったこの公演である。《カルメン》の150周年を記念して、この伝説的な舞台の映像が公開されることには、大きな意義がある。

堅実に音を運びながらそこに色彩を際立たせ、彫りの深いドラマを構築するイギリスの指揮者、マーク・エルダーのもと、前述したような音楽的な特色が際立つ。しかも、音楽と演出のバランスがよい。

カリスト・ビエイトの演出は、舞台をオリジナルの設定である1830年ごろのセビーリャから、1世紀ほど下った20世紀のフランコ政権下のスペインに移した。だが、音楽が強く醸し出すアンダルシアの色彩との違和感がない。
たとえば、第2幕のリーリャス・パスティアの酒場の場面。屋内の酒場ではなく広い屋外だが、真ん中に古い大きなメルセデスベンツが置かれ、カルメンは「ボヘミアの歌」を歌い終わると、踊りながら車の屋根に上る。その一つひとつの動きが演劇的で、同時に流れる音楽を引き立てる。ひとつだけ降られるスペイン国旗も、音楽に適度な色彩感を添える。
闘牛士のエスカミーリョが登場する前になると、何人かが火を掲げ、それがまた音楽の色彩を補う。また、オペラ《カルメン》の生命でもある舞曲や行進曲は、常に人々の動きで支えるように工夫されている。ダイナミックかつ芸が細かい演出なのである。

 

歌唱も演技も卓越した4人の歌手の稀有な競演

しかも、こうしたすべてが、超一流の歌手たちの卓越した歌と演技に支えられている。
エリーナ・ガランチャのカルメンは、私にとっては、記憶していたカルメン像のほとんどが洗い流されるほど、インパクトが強いものだった。磨き上げられたやわらかい声は、いつもながら高貴な響きをたたえ、そこにえもいわれぬ妖艶さが加わっている。しかも、ひと言で妖艶といっても、その表情は変幻自在で、容姿、動き、眼の表情……といったすべてが、男を惑わす自由な女を体現している。
高貴な妖艶さ。いや、色香とは高貴でなければ力をもたない、と教えられるようだ。時折アップになる彼女の顔が、映画のワンシーンのように表情豊かで、しかも、常に一定の気品が漂っているから、カルメンにますます惹かれてしまう。

ドン・ホセのロベルト・アラーニャも負けていない。独特の色彩を帯びた魅惑的なテノールは、美しさをたもったまま、ドン・ホセを歌うのにふさわしい力強さを獲得している。フランス語とフレージングがすこぶる美しいから、情熱も狂気も映える。カルメンとの最後の二重唱は、まさに迫真という言葉がふさわしい。
また、ミカエラとの二重唱の叙情性あふれる美しさも、特筆すべきだろう。ミカエラを歌うマリア・アグレスタも、これら2人に負けないレベルのソプラノで、繊細なピアニッシモを交えた叙情表現はミカエラにふさわしい。しかも、第3幕ではこの少女の芯の強さをもしっかりと伝える。
そしてエスカミーリョのイルダール・アブドラザコフ。気品と色気を兼ね備えた、豊かに響きよく伸びる低声。こうした特徴でアブドラザコフを超えるバス歌手は、世界中にほかにはいないと思われる。現代最高のエスカミーリョといって、反対する人は少ないだろう。

それにしても、品位と力強さが両立し、声を精緻に制御でき、演劇的にもすぐれている歌手が、こうして4人そろうのは稀有なことである。だから音楽的にも、演劇的にも、みな同じ方角を向き、オペラ《カルメン》の世界を深く掘り下げるのに寄与した。結果として、観る人のなかでハイレベルのスタンダードになりうる《カルメン》が生まれた。
これだけのものを観せられて(聴かされて)しまうと、私は次に《カルメン》を鑑賞するのが怖い。

350年以上の歴史を誇り、世界最古にして最高の芸術の殿堂と称されるパリ・オペラ座。その舞台では、数々の名作が初演され、現在もなお世界中の観客を魅了し続けています。この伝統と革新を受け継ぐパリ・オペラ座の最新パフォーマンスや不朽の名作を映画館で体験できる『パリ・オペラ座 IN シネマ 2025』が新たに開幕します!
2025年7月4日(金)~2025年9月18日(木)までの期間中、厳選された全3演目を、各1週間限定で全国の劇場にて公開。まるでパリのオペラ・バスティーユの良席にいるかのような臨場感溢れる映像と、映画館ならではの迫力ある音響で、パリ・オペラ座の芸術を日本にいながら贅沢にご堪能いただけます。

 

「パリ・オペラ座 IN シネマ 2025」では、「愛して、踊って、歌おう“ AIMONS, DANSONS, CHANTONS sans cesse”」というシーズンテーマのもと、選りすぐりの3作品が映画館のスクリーンで上映されます。ラインナップは、パリ・オペラ座バレエを代表する古典バレエの最高傑作『眠れる森の美女』、巨匠ロバート・ウィルソンが日本文化への深い理解をこめて演出し、世界で活躍するエレオノーラ・ブラットが主演した『蝶々夫人』、そして、初演から150周年を迎える節目に、エリーナ・ガランチャとロベルト・アラーニャという二大スーパースターの共演が実現した特別記念上映のオペラ『カルメン』の3作品。いずれも“愛”をテーマにした、芸術性あふれる珠玉のステージとなっています。

この新シーズンの幕開けを鮮やかに飾る日本版予告映像も到着しました。映像では、ジャン=フィリップ・ラモーの軽快な楽曲に乗せて、『眠れる森の美女』をはじめとする各作品の名シーンが映し出されています。華やかな舞台装置や美しい衣装に身を包んだダンサーたちの躍動感、そしてオペラ歌手たちの力強くも繊細な歌声が、映画館のスクリーンに鮮やかに映し出されます。映像の最後に、今シーズンの上映ラインナップが紹介され、観客の期待を一層高める仕上がりとなっています。

あわせて到着したポスタービジュアルは、荘厳な美しさを放つパリ・オペラ座(ガルニエ宮)を堂々と据え、“最新公演を映画館の大スクリーンで。至高の感動体験を――”というコピーが掲げられています。その下には、今シーズンの上映作品であるオペラ《カルメン》、バレエ《眠れる森の美女》、オペラ《蝶々夫人》の名場面を象徴的に切り取ったスチールが並び、パリの舞台芸術が日本の映画館にやってくるという特別感を視覚的に印象づけています。さらにポスター下部には、「扉のむこうはフランス、パリ・オペラ座」というメッセージが添えられ、映画館のスクリーンを通じてパリへとつながる非日常の体験を予感させる、洗練されたビジュアルになっています。

 

バレエ作品として上映されるのは、ルドルフ・ヌレエフ振付による豪華絢爛な『眠れる森の美女』です。2025年11月に劇場公開された『パリ・オペラ座「白鳥の湖」IMAX』が大ヒットを記録してアンコール上映が実現したことも記憶に新しいですが、『眠れる森の美女』は2025年4月に収録された最新の映像が劇場公開されます。ロココ時代のフランス宮廷の栄光を舞台上に再現し贅を尽くしたゴージャスな舞台美術と、パステルカラーの繊細な色使いが美しい衣裳の数々、大人数のダンサーが舞台を埋め尽くす究極のグランド・バレエです。ヌレエフ自身が高度な技術の持ち主だったため、デジレ王子の振付も通常の『眠れる森の美女』よりもはるかに高難度になっており、2幕ではクラシック・バレエの超絶技巧を尽くした長いソロがあります。オーロラ姫役は昨年エトワールに昇進したばかりの美しき新星ブルーエン・バティストーニ。気品にあふれる所作と丁寧な踊りが印象的です。デジレ王子役を演じるのは、若手エトワールのギヨーム・ディオップ。23歳の時にアフリカ系として初めてのパリ・オペラ座のエトワールに任命されて歴史に名前を残した彼は、パリ・オリンピックの開会式で踊り、カルティエなど数々のメゾンにも起用されるなど大きな注目を集めています。まだあどけないルックスと長身で恵まれたプロポーション、しなやかな肢体が美しく、王子の中の王子であるデジレ役にぴったりです。これからスターになっていくクララ・ムセーニュら若手ダンサーたち中心のヴァリエーション(ソロ)もふんだんにあり、目が眩むばかりの美の洪水ともいえる輝かしい舞台に酔いしれます。

 

オペラは2作品が上映されます。

『蝶々夫人』は、2024年9月に上演された舞台です。世界文化賞を受賞した巨匠ロバート・ウィルソンによる遠い夢のような高度に洗練された演出で余計なものをそぎ落としているため、プッチーニの美しい音楽に集中できると好評を得ています。ウィルソンと長年協働し、振付を手掛けた舞踊家・花柳寿々紫による人形振りなどの動きは、日本の能や文楽を思わせ、日本文化への深い理解を踏まえていると評価されたプロダクションです。ウィーン国立歌劇場やローマ国立歌劇場の来日公演、新国立劇場への出演などで日本でもおなじみの人気ソプラノ歌手、エレオノーラ・ブラットが蝶々さん役を務め、各紙から絶賛を集めました。一音一音に情熱と感情の強さを込めながら、緻密なバランスと官能的な表現を見事に両立させ、その深い演技力と表現力が観客を魅了しています。

 

『カルメン』はそれぞれカルメン役、ドン・ホセ役では当代一と評されるエリーナ・ガランチャ、ロベルト・アラーニャの超スーパースター同士の共演が楽しめます、本演目のなかでも最高キャストで贈る2017年の公演を特別上映。カリスト・ビエイトによる、20世紀のフランコ政権時代のスペインを舞台にした現代的な演出は、生々しく愛情表現も非常に官能的で、自由に生きる女カルメンの生と死を鮮やかに描いています。ウィーン国立歌劇場など世界中で人気を呼んでいるプロダクションです。妖艶な中にもどこか気品あるガランチャの圧巻の歌唱、カルメンに執着するあまり転落していくドン・ホセの狂気を迫真の演技と歌で熱く演じたアラーニャの共演によって、見ごたえ、聴きごたえがある公演となっています。

 

実際の舞台に接しても観ることができない、ダンサーやオペラ歌手の細かい表情や華麗な衣裳、舞台美術をじっくりと観ることができるのも映画館でバレエやオペラを観る楽しみの一つです。パリ・オペラ座の世界最高の舞台をぜひ映画館で!